中川諒(パワプロ2019 実在 2010年)
中川諒
成田高校(2008~2010)-JX-ENEOS(2011~2014)
甲子園2010を元にいろいろな要素を入れました。
・査定
球速…MAX144㎞
変化球…中川 諒(成田) | 選手名鑑 | 高校野球ドットコム 【千葉版】にシンカー、チェンジアップとあり、球種が少ないとあったのでサークルチェンジに。
クイック…少し遅いとの記述あり。
ケガしにくさ…2年にケガ
回復…中川 諒(JX-ENEOS)|ドラフト・レポートにあるんですが、最終戦明らかに疲れてるんですよね。しかも社会人では2試合しか投げなかったということもあり付けました。
根性…エースは1人で投げきるものだと教えられてきた
余談
尻上がり、テンポ付けたかったんですが忘れてました。
あと誕生日は適当なんで各自お願いします。
久しぶりに画像加工アプリ開いた件
…僕が使ってる加工アプリはAutodesk SketchBook
なんですが最近使わなかったんですね。
で今日久しぶりに使おうとして開いたら、
…
な に こ れ
本当に何を作ろうとしてたんすかね…
これもうわかんねぇなぁ…
部活 is KUSO
普通読み会あるって2日前に言うか?頭沸いてんだろ…
どーでもいいけどちーば君の薄い本あるらしいっすよ(小声)
アルフォンソ・ソリアーノ(パワプロ2019 実在 1997年)
アルフォンソ・ソリアーノ(1976年1月7日~)
カープアカデミー-広島東洋カープ (1996 - 1997)-ニューヨーク・ヤンキース (1999 - 2003)-テキサス・レンジャーズ (2004 - 2005)-ワシントン・ナショナルズ (2006)-シカゴ・カブス (2007 - 2013)-ニューヨーク・ヤンキース (2013 - 2014)
1997年成績 .118 0本 0点
ソリアーノの広島時代です。
が所有するドミニカ共和国の野球スクール「カープアカデミー」で才能を認められ来日。広島時代の背番号は74。
1996年はカープで二軍のウエスタンリーグで三塁と遊撃を守り、57試合に出場し、打率.214(131打数28安打)、本塁打0、13打点。
1997年に一軍登録され、9試合出場。17打数で2安打。身体が細いにもかかわらず、この頃からすでに振り回すバッティングフォームであった。また足が遅いことで有名だったためあだ名はロバと呼ばれていた。広島で遊撃手として守った時が、人生で一番精神的に疲れたという。当時を振り返り、「19歳(鯖読みをしており実際は21歳)だったんだ。自分の手は震えが止まらずにいたよ。誰も自分に向かってゴロを打って欲しくなかった。ポロリと落とすってわかっていたからね」と語った。
98年に契約金を巡って退団。
メジャーリーガーとして活躍した。
査定
アルフォンソ・ソリアーノ - CARP's CLUB 【かぷ吉】さんから二軍成績を参考
- 盗塁C
wikiには足が遅いってあるんですが二軍で14盗塁(5盗塁死)してるんですよね。
ということで走力Cの盗塁Cがいいかなと。
全盛期みたいにしたい人もいるかもしれないしね!(震え声)
グレン・ミケンズ(パワプロ2019 実在 1961年)
グレン・ミケンズ (1930年7月26日 - 2019年7月9日)
カリフォルニア大学ロサンゼルス校-ブルックリン・ドジャース (1953)-近鉄バファロー-近鉄バファローズ (1959 - 1963)
1961年成績
26試合 5勝11敗 2.42
1930年7月26日、米カリフォルニア州生まれ。UCLA在学中にブルックリン・ドジャースとマイナー契約を結んだ。53年7月、メジャーに昇格。ジャッキー・ロビンソン、ギル・ホッジスらのの大選手をバックに、4試合に登板したものの0勝1敗と成績を残せず、7月末に再びマイナーへ降格。以降、一度もメジャーに昇格することなく、58年までマイナーでプレーした。
59年に近鉄入団。スリークォーターからカーブ、シュート、スライダーなど多彩な変化球を繰り出し、先発として活躍。
61年はチーム打率.180台だっため勝ちが全く付かなかったが、防御率2点台、オールスター2年連続出場を果たした。
2019年7月9日に死去。
石原 照夫(パワプロ2019 実在 1959年)
石原照夫
成田中学校-立教大学-藤倉電線-東映フライヤーズ (1956 - 1960)
1959年成績: 110試合 .232 1本 16打点 5盗塁 22犠打(リーグ最多)
旧制成田中学校では、エースとして夏の選手権に2年連続出場。1946年、戦後初の開催となった夏の大会では、球史に残る1回戦最初の試合で京都二中と対戦するが0-1で惜敗。翌1947年夏の甲子園は松本中、高岡商を降し準決勝に進むが、この大会に優勝した小倉中に延長10回逆転負けを喫する。
大学で野手転向。
社会人野球から1956年に東映フライヤーズ入団。
1957年に142守備機会連続無失策で当時の日本記録をマーク。さらに翌1958年には自ら記録を更新する154守備機会連続無失策の日本記録(当時)を達成した。
1959年は出番が減少するが、リーグ最多犠打を達成。
守備も連続無失策とはいかなかったが安定した守備を披露。
1956年以来の本塁打も打った。
1960年に引退。
引退後は、東映のコーチとなった後に1982年から1年間、ロッテオリオンズの取締役球団代表を務めた。
2006年3月16日、胆管癌のため死去。
査定
守備型の選手として作りました。
- 肩
元投手、三塁手なのでCに。
- 怪我しにくさ
この年から出番が減少、1960に引退したことからケガをしたと予想。