石原 照夫(パワプロ2019 実在 1959年)
石原照夫
成田中学校-立教大学-藤倉電線-東映フライヤーズ (1956 - 1960)
1959年成績: 110試合 .232 1本 16打点 5盗塁 22犠打(リーグ最多)
旧制成田中学校では、エースとして夏の選手権に2年連続出場。1946年、戦後初の開催となった夏の大会では、球史に残る1回戦最初の試合で京都二中と対戦するが0-1で惜敗。翌1947年夏の甲子園は松本中、高岡商を降し準決勝に進むが、この大会に優勝した小倉中に延長10回逆転負けを喫する。
大学で野手転向。
社会人野球から1956年に東映フライヤーズ入団。
1957年に142守備機会連続無失策で当時の日本記録をマーク。さらに翌1958年には自ら記録を更新する154守備機会連続無失策の日本記録(当時)を達成した。
1959年は出番が減少するが、リーグ最多犠打を達成。
守備も連続無失策とはいかなかったが安定した守備を披露。
1956年以来の本塁打も打った。
1960年に引退。
引退後は、東映のコーチとなった後に1982年から1年間、ロッテオリオンズの取締役球団代表を務めた。
2006年3月16日、胆管癌のため死去。
査定
守備型の選手として作りました。
- 肩
元投手、三塁手なのでCに。
- 怪我しにくさ
この年から出番が減少、1960に引退したことからケガをしたと予想。